[わかり合えないということ]
人とわかり合えない時、悲しくて、孤独になる。
私の両親は2人とも、若くしてクリスチャン(キリスト教の信者)になった。
結婚も、教会内での見合い結婚だった。
日本国内のクリスチャンの人口比率は、およそ1%未満と言われている。
私はそういう、所謂「普通」ではない家庭で生まれ、育った。
日本のクリスチャンホームに生まれ育った事で、2つの「わかり合えないこと」が、今も私を悩ませる。
1つ目は、「家族とわかり合えないこと」。
私には当たり前のように、クリスチャンホームで吸収したキリスト教の基盤がある。
大人たちに教えられたから信仰するのか、自ら真理だと思い信仰するのか、わからないままでいる。
私の中で神と両親は癒着していて、切り離そうとしても、出来ないでいる。
信仰上の混乱と、教会に関する堅苦しくて抑圧的な最悪の思い出がある。
大学進学を機に、実家と教会からせめて身体的にだけでも離れずにはいられなかった。
親が子どもに幸せになって欲しいのは当たり前で、
多数派からわざわざキリスト教徒になった私の両親の幸せは、家族が正しい信仰生活を貫くことだった。
だから彼らは私に、そういう生活の型に嵌ることを求めた。
思春期を迎えた頃、教会を嫌がる私への両親の苛立ちと、強引さが恐ろしかった。
当時は生活の中の端々に、そういう対立があった。家にいる事が辛かった。
子ども時代の私は、たくさんの愛情をかけて育ててもらっていたけれど、不幸だった。
自分の気持ちを受け容れられず、両親の価値観を押しつけられようとしたのが、
たまらなく孤独で、かなしくて、嫌だった。大人になってから気づいた。
両親が1番大切にしているものを、私はわかる事が出来ない。
私が思っている事を、両親はわかろうとしてくれない。
1番近くにいた筈なのに、こんなにも遠い。家族ですらわかり合えない。
2つ目は、「キリスト教を知らない人とわかり合えないこと」。
「普通」でない家で育ったから、日本の「普通」の家庭で育った友人とは、
わかり合えない価値観があると思う。
私がクリスチャンホーム特有の悩みを打ち明けたところで、相手は返答に困ってしまうだろう。
そして、私も友人達が育ってきた環境や感覚について、わからないところがある。
初詣やお盆、お彼岸などの年中行事に参加したことはないし、死生観についても根本的に違う。
同じ時代に同じ国で、同じ言葉を話して、同じような生活をしている筈なのに、
自分や周りのクリスチャンは、外国人のようだなと思う事がある。
私は実家がクリスチャンホームだから、こういう事を考えているけれど、
たぶん、この文章内の「キリスト教」「クリスチャン」という言葉は、他の宗教にも置き換えられる。
宗教でなくても、周りの大人から消せない価値観が刷り込まれた子ども―「わかり合えなくなってしまった」大人はたくさんいるのではないか。
(同じような背景で育った人同士だって当たり前にわかり合えないし、争いもする)
もともと同じだった筈なのに、人が決めた形式(宗教や国境、慣習…etc.)の違いで
争っていたり悲しんでいる人たちの様子を見聞きする時、胸が絞めつけられる。
「わかり合おうとしない事」が、私と両親に溝を作った。
今は、私でしか出来なかった経験をもとに、何かに変えようとしている。
作品制作で、悲しさや孤独を、自分がしっくりくる楽しさに変える事を覚えた。
制作がなかったらきっと、生きる基準を得られず、廃人のように生きていた。
自分の周りにどんな人や物事が存在するのか。
それはどういう存在なのか。
つくることを通じて興味を持ち、自分なりに観察し、解釈出来るようになった。
私の狭い世界を広げ、外と繋げてくれる。
1つの見方にこだわり過ぎないで、やわらかく生きたい。
2015.11.08 木村りべか